荷物袋を取り戻すと、エナンはすぐに木こりの青年のもとに向かった。
「ヴァリス、大丈夫か?」
左腕にほとんど抱えるようにしてルーシェを支えるザスが、エルフに向けて心配そうに右手を差し出す。
傷だらけになった木の幹に背中を預けて座り込んでいたヴァリスは、疲労の濃い顔に笑みを浮かべると、
「あたしは平気よ。エルフはヒトより造りが頑丈なの、知ってるでしょ?」
そう言いながらザスの手を借りて立ち上がった。
少し遅れてエナンに追い付いた三人は、彼の手元に置かれたキズ薬が未開封であることに気付く。
「エナン、どう……?」
それでも躊躇いがちに口を開くと、ハンターが首を微かに横に振る。
その仕草に、ザスは奥歯をギリリと食いしばり、ヴァリスはブルーグレーの双眸をぎゅっと閉じた。
ファイターの腕から離れたルーシェは木こりの傍らに膝を着くと、冷たくなった手をとり、両手できつく握りしめた。
「やはり……オーリアンは嘘つきですね。貴方は誰も救わない。誰も……」
小さな声で呟かれた言葉は、近くにいたエナンにも聞き取れなかった。
怪訝な表情を浮かべるハンターの眼先で、ルーシェは右手を口元に運ぶと、中指に歯をたてて噛み破る。
そして、血の滴る指を木こりの青年の額に触れさせた。
「やめろ、ルーシェ!」
ザスがハッとした様子で、プリーストの細い腕を掴もうと、飛び掛からんばかりの勢いで近づく。
状況が飲み込めないままのエルフとハンターは、ザスの剣幕に圧倒されて呆然とするよりほかになかった。
「その呪は駄目だ! ルーシェ、やめてくれ!」
ザスの悲鳴にも似た制止の声をまるで拒絶するかのように、ルーシェの周りに深紅の呪陣が展開した。
青年の額に文字とも絵ともつかぬ印を血で描きながら、プリーストは薄い唇を動かし続ける。
――神狼ムゥよ、導き給え。この魂が迷わぬように。ハーディスの月の舟にて。渡し守ムゥよ、どうか導き給え。海の底の静かなる庭へ――
「――!?」
エナンとヴァリスは驚愕に目を見開いた。
柔らかな旋律を伴って歌われた魂送りの呪。
オーリアン教会のものではないそれは、古語によって綴られていた。
「赤い呪陣(ブラッド・サークル)――古代の魔法だわ。長命のエルフでも使える者は少ないのに……」
深紅の呪陣いっぱいに狼の鼻先が現れた。
生えそろった鋭い牙を見せ付けるように顎(あぎと)を大きく開き、木こりの身体を一息に呑み込むと、再び地の底へと潜っていった。
神狼ムゥ――女神グレシャスが夫神ハーディスに贈ったとされる神獣である。
東の空に月が昇り始めると同時に姿を現し、昼の間に集めた魂を月の舟に乗せ、海底にあるハーディスの庭へ送り届ける役割を担っていると伝えられていた。
だが、今は農作物を荒らす害獣の首魁と見做され、オーリアンの信徒にとってはもはや信仰の対象ではなかった。
教会が棄てた神を、教会の人間が信仰する。
嫉妬深いオーリアンが、それを寛恕するはずもなかった。
深紅の呪陣が消える――同時に、ルーシェは身を折るようにしてうずくまると、激しく咳込み始めた。
喉で厭な音が鳴り、口の中に金錆びた味が広がる。
咄嗟に手で覆ったが、到底隠しきれるものではなかった。
指の隙間から流れ落ちた血が草に触れた瞬間、黒く変色して枯れていく。
「――!」
ヴァリスは上げかけた悲鳴を、なんとか飲み込んだ。
ルーシェの背中をさすってやりながら、「どういうことなの?」と原因を知っているらしいザスに目顔で問い掛ける。
「オーリアンの“罰”だ」
赤毛のファイターは苦々しげに口にした。
「すまないが、少し休ませてやってくれ」
「じゃあ、木こりさんの家をお借りしましょうよ。暗くなってきたし、もうヘトヘトだわ。モンスターに囲まれたって、あたし、これ以上は戦えないわよ~」
「これも返すべきだろう」
エナンはオウルベアから取り戻した木こりの白い袋を丁重に抱えあげた。
中にはキズ薬のほかに、伐採用の道具、様々な書き込みのなされた地図と方位磁石、簡易食糧、それに鍵が二本入っていた。
そのうちの一本にはタグに「ボート小屋」の文字がある。
木こりが言っていた大事な物とは、この鍵のことだったのだろうか。
ザスはこの場で少し休んでから宿屋に引き返すつもりだったが、その考えは改めざるを得なかった。
誰の顔にも思った以上に疲労の色が濃い。
おそらく自分もひどい有様なのだろう。ヴァリスとエナンから気遣わしげな視線が送られてくる。
「ルー、歩けそうか?」
ひどく痛むのか、ルーシェは服の胸元を鷲掴みにして、大きく喘いでいた。
細く白い顎が吐いた血で染まっている。その凄惨さに、ザスは胸の詰まる思いであった。心の中で後悔の念が渦巻く。
ザスの問いに頷きで応えたルーシェは緩慢な動作で立ち上がると、ヴァリスの助けを借りてゆっくりと歩き出した。
当然のように差し出されたザスの手は、虚しく空を切った。
「ヴァリス、大丈夫か?」
左腕にほとんど抱えるようにしてルーシェを支えるザスが、エルフに向けて心配そうに右手を差し出す。
傷だらけになった木の幹に背中を預けて座り込んでいたヴァリスは、疲労の濃い顔に笑みを浮かべると、
「あたしは平気よ。エルフはヒトより造りが頑丈なの、知ってるでしょ?」
そう言いながらザスの手を借りて立ち上がった。
少し遅れてエナンに追い付いた三人は、彼の手元に置かれたキズ薬が未開封であることに気付く。
「エナン、どう……?」
それでも躊躇いがちに口を開くと、ハンターが首を微かに横に振る。
その仕草に、ザスは奥歯をギリリと食いしばり、ヴァリスはブルーグレーの双眸をぎゅっと閉じた。
ファイターの腕から離れたルーシェは木こりの傍らに膝を着くと、冷たくなった手をとり、両手できつく握りしめた。
「やはり……オーリアンは嘘つきですね。貴方は誰も救わない。誰も……」
小さな声で呟かれた言葉は、近くにいたエナンにも聞き取れなかった。
怪訝な表情を浮かべるハンターの眼先で、ルーシェは右手を口元に運ぶと、中指に歯をたてて噛み破る。
そして、血の滴る指を木こりの青年の額に触れさせた。
「やめろ、ルーシェ!」
ザスがハッとした様子で、プリーストの細い腕を掴もうと、飛び掛からんばかりの勢いで近づく。
状況が飲み込めないままのエルフとハンターは、ザスの剣幕に圧倒されて呆然とするよりほかになかった。
「その呪は駄目だ! ルーシェ、やめてくれ!」
ザスの悲鳴にも似た制止の声をまるで拒絶するかのように、ルーシェの周りに深紅の呪陣が展開した。
青年の額に文字とも絵ともつかぬ印を血で描きながら、プリーストは薄い唇を動かし続ける。
――神狼ムゥよ、導き給え。この魂が迷わぬように。ハーディスの月の舟にて。渡し守ムゥよ、どうか導き給え。海の底の静かなる庭へ――
「――!?」
エナンとヴァリスは驚愕に目を見開いた。
柔らかな旋律を伴って歌われた魂送りの呪。
オーリアン教会のものではないそれは、古語によって綴られていた。
「赤い呪陣(ブラッド・サークル)――古代の魔法だわ。長命のエルフでも使える者は少ないのに……」
深紅の呪陣いっぱいに狼の鼻先が現れた。
生えそろった鋭い牙を見せ付けるように顎(あぎと)を大きく開き、木こりの身体を一息に呑み込むと、再び地の底へと潜っていった。
神狼ムゥ――女神グレシャスが夫神ハーディスに贈ったとされる神獣である。
東の空に月が昇り始めると同時に姿を現し、昼の間に集めた魂を月の舟に乗せ、海底にあるハーディスの庭へ送り届ける役割を担っていると伝えられていた。
だが、今は農作物を荒らす害獣の首魁と見做され、オーリアンの信徒にとってはもはや信仰の対象ではなかった。
教会が棄てた神を、教会の人間が信仰する。
嫉妬深いオーリアンが、それを寛恕するはずもなかった。
深紅の呪陣が消える――同時に、ルーシェは身を折るようにしてうずくまると、激しく咳込み始めた。
喉で厭な音が鳴り、口の中に金錆びた味が広がる。
咄嗟に手で覆ったが、到底隠しきれるものではなかった。
指の隙間から流れ落ちた血が草に触れた瞬間、黒く変色して枯れていく。
「――!」
ヴァリスは上げかけた悲鳴を、なんとか飲み込んだ。
ルーシェの背中をさすってやりながら、「どういうことなの?」と原因を知っているらしいザスに目顔で問い掛ける。
「オーリアンの“罰”だ」
赤毛のファイターは苦々しげに口にした。
「すまないが、少し休ませてやってくれ」
「じゃあ、木こりさんの家をお借りしましょうよ。暗くなってきたし、もうヘトヘトだわ。モンスターに囲まれたって、あたし、これ以上は戦えないわよ~」
「これも返すべきだろう」
エナンはオウルベアから取り戻した木こりの白い袋を丁重に抱えあげた。
中にはキズ薬のほかに、伐採用の道具、様々な書き込みのなされた地図と方位磁石、簡易食糧、それに鍵が二本入っていた。
そのうちの一本にはタグに「ボート小屋」の文字がある。
木こりが言っていた大事な物とは、この鍵のことだったのだろうか。
ザスはこの場で少し休んでから宿屋に引き返すつもりだったが、その考えは改めざるを得なかった。
誰の顔にも思った以上に疲労の色が濃い。
おそらく自分もひどい有様なのだろう。ヴァリスとエナンから気遣わしげな視線が送られてくる。
「ルー、歩けそうか?」
ひどく痛むのか、ルーシェは服の胸元を鷲掴みにして、大きく喘いでいた。
細く白い顎が吐いた血で染まっている。その凄惨さに、ザスは胸の詰まる思いであった。心の中で後悔の念が渦巻く。
ザスの問いに頷きで応えたルーシェは緩慢な動作で立ち上がると、ヴァリスの助けを借りてゆっくりと歩き出した。
当然のように差し出されたザスの手は、虚しく空を切った。
スポンサードリンク